ターゲット・バードゴルフものがたり(誕生~発展・普及の歴史)

ターゲット・バードゴルフの誕生の瞬間から、発展・普及の歴史をものがたりとしてまとめました。

1.はじまり

羽根付きゴルフボールの誕生

1969年、世界中が見守ったアポロ11号の月面着陸。
月面にふわりと降りた宇宙船の姿を見ていた野嶋孝重の頭に、閃くものがあった。
「そうだ。ふわりと軟着陸させればいいんだ。」
のちに「ターゲット・バードゴルフ(TBG)」として数万人の愛好者を生み出すこととなるニュースポーツの歴史は、この瞬間にはじまった。

そこからさかのぼること10年弱の1960年。
当時住友銀行に勤めていた野嶋は、得意先の誘いで初めてゴルフを体験し、その爽快感にかつてない感動を受けたと同時に、大変高額なプレイフィーに動揺し大きなショックを受けた。こんなに楽しいスポーツなのに、限られたお金持ちしか楽しむことができないのはもったいない。いつでもどこでも、手軽に誰もができる方法はないのだろうか?そんな思いを何とか形にしようと我流で試行錯誤を続けてたどり着いたのが「制御翼付ゴルフボール」。

時はすでに1968年。そして野嶋の描いたイメージに、大きなヒントを与えてくれたのがアポロ11号だった。バドミントンの羽とゴルフボールを組み合わせたような形状は、なるほどアポロ11号に似ていなくもない。ふわりと軟着陸するボールは、飛距離が小さいので狭いスペースでもできること、球速が遅いのでネットや囲いがなくてもそれほど危険でないことが、普通のゴルフボールとの違いだった。

我流で作ったボールを野嶋は、自らが楽しむだけでなく、知人や近所の空き地でゴルフ練習をする人々等に配って回った。スポーツとして世に出そうとか、商売にしようとか、そういった思いがあるわけではなかったが、自分の作ったものを他の人にも試してもらいたかったのだ。

思いがけない申し出

アポロ11号から15年ほどの年月が過ぎたある日、銀行を退職しインテリアデザイナーとして独立していた野嶋の元に大手百貨店勤務の友人から電話がかかってきた。
「野嶋さん、例の羽のついたゴルフボール、またわけてくれないかなあ」と。
聞けば友人は、野嶋にもらったボールを、日ごろのゴルフ練習に使っているとのこと。練習場に行かなくても、手軽にできることから、長いこと愛用していたが、失くしたりぼろぼろになったりで新しいものが欲しい、と言うのだ。

例のゴルフボールのことなどすっかり忘れていた野嶋は、心底驚いたとともに、「需要があるかもしれない」とピンときた。15年間、友人が飽きずに遊んでこられたのだから、きっと他のひとだって楽しいに違いない。幸い当時は、身軽な自営業の身。銀行員には無理だが、今なら世に出せる。どうせやるなら、ボールだけでなく、レジャースポーツとして発表してみよう、と。

2.ターゲットバードゴルフの発表へ

ニアピン競技の発表

1985年2月8日、野嶋はニュースポーツとして「ターゲット・バードゴルフ」を発表。
人工芝にターゲットを描き、シャトル・ボール(羽のついたボール)を打って得点を競うニアピン競技だ。当時の野嶋は車に道具を一式積み、一人で普及活動に走り回った。大学や学校、役所関係、知人等、あらゆるところに出向いて、競技の説明をし、道具を配って歩く。もちろんすべて手弁当。経費がどんどん膨らんでいくが、そんなことはお構いなし。とにかくこのニュースポーツを世の中に広めようと、がむしゃらだった。

そんなある日、銀行勤め時代に覚えのあった浅草でターゲットバードゴルフ(TBG)を紹介したときのこと。知人に「野嶋さん、『(財)日本レクリエーション協会(日レク)』には相談してみた?」と声をかけられた。さっそくその足で千駄ヶ谷の日レクを訪ねた野嶋が、いつものようにターゲットバードゴルフ(TBG)を紹介し終えたところ、担当者が「(日レクの)推薦用具の審査に出すので、書類を書いて明日持ってきてください」とのこと。訳もわからぬまま翌日、書類を提出しに再び日レクに出向くと、次は実技審査に来てくださいとのこと。こうしてとんとん拍子で日レクの推薦用具に認定されたのは、ターゲットバードゴルフ(TBG)発表からわずか2か月後の4月のことであった。

タイミングが良いとは、まさにこのことを言うのだろう。野嶋が日レクを訪問した時期は、年に1、2回しかない日レクの推薦用具選定のタイミングだった。日レク内にもゴルフ愛好者は多く、オフィス屋上でシャトル・ボールの試し打ちをしながら「これは面白い」ということで話が進んでいったのだった。

コース競技の誕生

同じく4月、ゴルフ専門誌「ゴルフコミック」(秋田書店)でターゲットバードゴルフ(TBG)が紹介された。メディア初登場である。
この報道を見た別のマスコミが、また別の取材に訪れ、マスメディアでターゲットバードゴルフ(TBG)が扱われることが増え始めたある日のこと、広告代理店の東急エージェンシーから一本の電話が入る。それは、8月に静岡県のリバー富士カントリークラブにて行われる「第1回伊藤園レディスゴルフトーナメント」で、アトラクション競技としてターゲットバードゴルフ(TBG)を出品させてほしいとの要請だった。野嶋が小躍りして喜んだのは言うまでもない。それまで、毎日10万円、20万円と出費を重ねながら一人で普及をしていたのに、代理店がバックについて、プロが集まるトーナメントでターゲットバードゴルフ(TBG)を紹介できるのだから。

せっかくゴルフ場をアトラクションをやるのなら、ゴルフのようにコース競技にしてみたら面白いのではないか。そんな思いから野嶋は、フラフープを地面に置き、中心にビーチパラソルを立てたものをホールにしたコース競技を発表することとなった。急ごしらえで作ったターゲットバードゴルフコース競技だが、すでに川口市では多くの人々がターゲット・バードゴルフ(ニアピン競技)を楽しんでいる。そこでまずは発祥の地である川口で発表するのが筋であろうと、「第1回伊藤園レディスゴルフトーナメント」に先駆けて8月12日、ターゲットバードゴルフコース競技が発表された。

その後、8月22日~25日の「第1回伊藤園レディスゴルフトーナメント」会場でのアトラクションも大好評。ギャラリーとともに、出場していた女子プロゴルファーたちもターゲットバードゴルフ(TBG)を楽しんだ。この発表をきっかけに、ターゲットバードゴルフ(TBG)はコース競技が主流となって発展していくこととなる。

マスコミ殺到

コース競技発表から2ヶ月後の体育の日(10月10日)、ターゲットバードゴルフ(TBG)コース競技によるはじめての研究大会が「埼玉新聞杯」として行われた。この様子がテレビ埼玉で放映され、これを見たNHKが11月23日に第2回研究大会を取材。12月24日に「サンデースポーツスペシャル」で全国放映されたところ、大反響を呼ぶ。番組を直接、間接に見て翌1986年取材に訪れたマスコミは、テレビ、雑誌、新聞など計160社。宣伝効果は計り知れない。発表からわずか1年で、ニアピン競技からコース競技と発展し、多くのマスコミに取り上げられ、ニュースポーツとしては順調な滑り出しだったといえる。

3.群馬県昭和村の動き

遊休地活用の課題

1986年の敬老の日(9月15日)のこと。
ターゲットバードゴルフ(TBG)がNHKで高齢者のスポーツとして紹介されるのを見た互光興産の社長・北原大平は、さっそく川口の野嶋を訪ね、ターゲットバードゴルフ(TBG)をやりたい旨を伝えた。日立金属の土地などを管理する互光興産(後の日立金属エステート)は、群馬県の赤城山麓に(利根郡昭和村赤城久呂保高原)に25万坪近い別荘用地を持っており、この有効活用が6月に社長に就任したばかりの北原の課題であった。お金をあまりかけずに、人が集まることをやろうとさまざまなことを検討してく中で、ゲートボール、グランドゴルフ、迷路などの案があったが、最終的にターゲットバードゴルフ(TBG)となった。入場料収入、コースの設計などで事業化しようという目論見であった。

バブル真っ最中の当時、ターゲットバードゴルフ(TBG)を新規事業にと野嶋の下を訪ねた企業関係者はかなりの数に上った。が、最終的に話が具体化したのは北原の会社のみ。11月、野嶋が赤城久呂保高原を訪れ、3ホールのコースとクラブハウスを設置、赤城久呂保バードゴルフ場がオープンした。実は初めは、クラブハウスまで建てる予定はなかった北原だが、「プレイの前後に休んだり寛ぐために、クラブハウスは必要」と唱える野嶋が、インテリアデザイナーとしての腕を活かして、半ば勝手に空いていた物置を改装。完成したクラブハウスを見た北原は「いいんじゃない」と一言、そのまま使われることになった。

翌年2月、川口の青木町公園で行われた川口市大会に参加した互光興産社員と協力会のメンバーは、ターゲットバードゴルフ(TBG)の面白さを実感。それとともに、ロープで仕切っただけのコースはいささか興覚めで、広々とした土地に常設のコースが欲しいとの意見で一致した。その思いから、1987年4月に9ホール、続いて8月に18ホールがオープンし「赤城高原久呂保倶楽部」と命名、ターゲットバードゴルフ(TBG)の普及拠点として発展していく。

昭和村の推奨スポーツに

1986年12月には、倉澤義輝が昭和村村長に就任。1985年に関越自動車道が全面開通、また将来的に昭和インターの供用が予定され、アクセスが格段に良くなる昭和村だが、温泉地やゴルフ場といった人を呼べる施設が何もない。日照時間が長く豊かな土地を活かして、人を集めたいという倉澤と、自社の別荘地に人を集めたいという北原の意向が一致し、昭和村でターゲットバードゴルフ(TBG)を普及させていくことになった。1987年7月には、実験調査を経て昭和村推奨スポーツとして認可。村民大会、中学校の必修クラブなどを通じて、村内に愛好者が着実に増えていく。

関東ターゲットバードゴルフ協会の設立

1987年4月、北原は自社内に「関東ターゲット・バードゴルフ協会」を設立し、会長に就任。全国的にニュースポーツを普及させるためには、一企業名を全面に出すよりも協会のほうが適しているという判断からだ。「関東」の名称は、いずれ日本ターゲットバードゴルフ協会ができることを見越し、初めの一歩と考えてのことだった。それまでターゲットバードゴルフ(TBG)の普及は、野嶋の会社であり用具を取り扱う「ウインストン」と、ウインストンを母体とした「日本
ターゲットバードゴルフ普及会」とが担っていたが、組織的な動きはほとんどなかった。関東ターゲットバードゴルフ(TBG)協会は、公認指導者の養成、公認コースの認定、赤城久呂保倶楽部での体験、各種大会の実施等の活動を行っていくこととなる。

9月、NHK群馬でターゲットバードゴルフ(TBG)が「年寄りのスポーツ」として紹介され、大きな反響を呼んだ。たまたま別荘地にいた清水群馬県知事もその一人。ターゲットバードゴルフ(TBG)を大変気に入り、利根川の河原にある県営ゴルフ場に、5000万円の予算をかけてターゲットバードゴルフ(TBG)場を作ることが決まり、翌1988年8月に群馬県営玉村ターゲットバードゴルフ(TBG)場がオープンする。他にもさまざまなメディアに取り上げられ、市区町村からは生涯スポーツとして、民間企業では職場スポーツとして導入のため、全国からたくさんの人が赤城を視察に訪れた。

知事からの援護もあり、群馬県は発祥地の埼玉県と並ぶターゲット・バードゴルフ先進県となった。1988年10月に「第30回健康体力つくり運動推進全国大会」が群馬県で開催され、ターゲット・バードゴルフも初めて競技種目として採用。この運営に、県内の協会が携わるようにとのことから8月に群馬県ターゲット・バードゴルフ協会が設立される。会長に倉澤、副会長に北原と野嶋が就いた。

4.文部省と日レクの動き

時代の後押し

ターゲットバードゴルフ(TBG)の発展に大きな影響を与えたのが、行政、つまりスポーツを管轄する文部省(現文部科学省)の動きだ。
1982年、文部省は高齢者を中心とした新しいスポーツを開発するための補助事業を始めた。各市町村が次々と、従来のスポーツに替えて独自のニュースポーツを開発していった時代で、行政のニュースポーツについての理解は高かったといえる。また、1947年に始まった国民体育大会(国体)の全国一巡がほぼ終わりに近づき、その2巡目のあり方とともに、競技スポーツと生涯スポーツという概念分けができてきた。スポーツが一部のエリートのものだけに偏るのではなく、普通の人が長い人生の間に楽しむことのできるスポーツ=「生涯スポーツ」の必要性が語られるようになった時期だった。

1986年10月にターゲットバードゴルフ(TBG)は、文部省の生涯スポーツに認定される。同12月「生涯スポーツ実技指導者講習会」で取り上げあれ、全国から集まった実技指導者を前に、野嶋がターゲットバードゴルフ(TBG)の講習を行い、各地への普及の基となった。

スポレク祭の始まり

そんな折、厚生省(現厚生労働省)が高齢者を中心とするスポーツの祭典「ねんりんぴっく」の実施を打ち出す。スポーツを管轄している文部省は、日本レクリエーション協会(日レク)が担当している「全国レクリエーション大会」を手直しして、1988年から「全国スポーツレクリエーション祭(スポレク祭)」を始めることが決まっていった。国体が競技スポーツの全国祭典なら、スポレク祭は生涯スポーツの全国祭典と位置づけられる。
第1回、山梨県で行われるスポレク祭に向けて、まずは種目の選定が行われた。種目は日レクが担当する主にニュースポーツと、体育協会が担当する競技スポーツを年齢等で区切ったもの(例:壮年サッカー、年齢別バドミントン等)があるが、日レクが推薦した3種目のうち、結局選ばれたのはターゲット・バードゴルフのみ。

第1回スポレク祭でターゲットバードゴルフ(TBG)の会場は、山梨県一宮町。一宮町は、もともと他の競技の開催を希望していたがかなわず、日レクから提示されたニュースポーツのリストの中からターゲットバードゴルフ(TBG)を選んだのだった。この一宮町の決定は1988年3月のこと。スポレク祭の種目に選ばれたことはターゲットバードゴルフ(TBG)にとって、その後の発展を決定づける運命の出来事だった。

ターゲットバードゴルフ(TBG)の会場となることが決まった一宮町は野嶋に連絡を取り、ターゲットバードゴルフ(TBG)について指導を受けるとともに、同町の金川の河川敷に町営コースの造成を依頼した。この記念すべき「一宮金川の森ターゲットバードゴルフ場」は、山梨県営のコースとして現在も使われている。

日本ターゲットバードゴルフ協会の設立

スポレク祭への参加が決まり、日本ターゲット・バードゴルフ協会の設立が急務となった。日レクが、ニュースポーツ団体の設立に積極的だった時期でもあり、協会事務局は日レク内に置き、事務局長は当時日レクでスポーツ用具や書籍を販売するサービスセンターの部長だった押塚登貴夫が就くことに決まった。会長には、当時筑波大教授で。文部省主管の野外活動講習会のチーフを務めてるなど、さまざまなスポーツ団体で活躍していた長谷川純三に、押塚と日レク専務理事の吉田正志が依頼したところ快諾され、1988年6月、日本ターゲット・バードゴルフ協会が発足した。

1991年当時、協会公認コースとされていたのは、久呂保をはじめ、ターゲットバードゴルフ(TBG)梅郷セゾンコース(千葉県野田市)、ターゲットバードゴルフ(TBG)サホロスポーツランド(北海道新得町)、瀬戸大橋フレンド倶楽部(香川県坂出市)、伊那スキーリゾートターゲットバードゴルフ(TBG)倶楽部(長野県伊那市)、グリンピア恵那ターゲットバードゴルフ(TBG)場(岐阜県恵那市)、千曲川リバーフロントスポーツガーデンターゲットバードゴルフ(TBG)場(長野県長野市)、ターゲットバードゴルフ(TBG)戸隠高原フレイムコース(長野県戸隠村)の8か所。これらは、ターゲットバードゴルフ(TBG)の初期の普及活動の足跡を物語っている。

スポレク祭と各都道府県協会の設立

スポレク祭への参加と、各都道府県協会の設立には密接な関係がある。全都道府県に地域協会を作るということが、スポレク祭の種目に選ばれたときの条件だったからだ。まず、スポレク祭開催県には、競技の主催のために協会が作られ、公認指導者が生まれ、公認コースが作られる。スポレク祭に関係のない県には、教育委員会の指示で協会が作られる。主催するだけのための活動は、結局長続きしないケースが多かった。

たとえば第3回(1990年)の和歌山県は、体育指導員が公認を受けて指導はしたが、組織(協会)作りはしなかった。また、第4回(1991年)の熊本県は、県のレクリエーション協会が補助金の受け座らのために協会を作ったが、愛好者の開拓と育成までには至らず尻すぼみになってしまった。逆に、第5回(1992年)の島根県はうまくいったケース。ターゲット・バードゴルフを開催する加茂町(現雲南市)の担当者が、スポレク祭開催を控えて文部省に研修生として出向。ターゲット・バードゴルフのことを学んだ上で地元に戻り、2万坪の土地を使ってコースを作った。互光興産が設計したこのコースは、当時「日本一のコース」と呼ばれた。せっかくのコースが、スポレク祭だけではもったいないと、加茂町では翌年「第1回全国ふれあい大会」が行われた。スポレク祭のために作ったコースと活性化した組織やノウハウを、盛り上がった状態で翌年活用するというのは、その後の全日本大会の考え方につながっていく。

5.各地域大会から全日本大会へ

地域ブロックの発展

「全国ふれあい大会」等はあったものの、当時の行事は、全国レベルのスポレク祭と都道府県の大会が中心。その間をとって、1992年にいち早く地域ブロックレベルの選手権大会を始めたのが関東だった。第1回はターゲットバードゴルフ(TBG)発祥の地である埼玉県で行われ、以後続いているが、この「地域ブロック」という考え方も、ターゲットバードゴルフ(TBG)の発展を語る上で欠かせない要素だ。

「関東ブロックターゲットバードゴルフ協議会」は、もともと「関東地区選手権大会」の補助金申請の関係で、主催団体として1999年に発足したものだった。当時、発足したばかりの日本ターゲットバードゴルフ(TBG)協会が日本全国をまとめ上げることは難しく、それならば全国を6ブロックに分けて、そこを中心にコントロールしたらどうかと思いつく。ただ、ブロックの中に何か核になる行事がないと、ブロック長もやりにくいしまとまりにくい。そこで関東ブロックに倣って、各ブロック協議会主催の大会を行ってはどうかと提案したところ、各ブロック長を中心にブロック協議会が発足し、ブロック大会が始まっていくことになった。

悲願の全日本大会開催へ

全国スポレク祭があり、各地域ブロック大会が始まっていく中で、全日本大会開催への機運が高まっていく。全国スポレク祭は、日本ターゲットバードゴルフ(TBG)協会主催の大会ではないので、自分たちのやりたいことが生かされる自前の大会を開くのは、スポーツ団体としての悲願でもあった。スポレク祭で人作り、組織作りをしても、それっきりで後が続かない例を過去に嫌になるほど見てきた押塚のアイデアは、スポレク祭の翌年、同じ場所で日本ターゲットバードゴルフ(TBG)協会主催の全日本大会を開催するというもの。スポレク祭で盛り上がった人と組織と施設を、その勢いのまま全日本大会で活性化させるのだ。

とにかく第1回をやろうという意気込みで、2002年にスポレク祭が行われる広島にターゲットを絞った。広島県の責任者は因島市長を務めたこともある楠見昭二。快諾した楠見は幅広い人脈を活かして奔走。2003年10月、念願だった「第1回日本ターゲット・バードゴルフ大会」が広島県尾道市で開催された。

ネックだった経費面については、日本協会が主催者として補助するのはもちろんだが、開催地の尾道市からも楠見の努力により補助金が出ることになった。第1回全日本大会で開催地に予算を組んでもらえた事実は、今後の大会でも前例となって続いていくことを考えると、大きな成果だ。

また、全日本大会を機に、スポレク祭開催の県からは、日本協会へ必ず理事を推薦してもらうルールができた。前もって日本協会と開催県協会との連携を強化していくことで、スポレク祭とその翌年の全日本大会をスムーズに行おうという作戦だ。こうして始まった全日本大会も2007年で節目の5回目を迎える。

国体参加

ターゲットバードゴルフ(TBG)は1988年に始まったスポレク祭の第1回から参加しているが、さらに一般の関心度の高い国体に出場するというのも、夢のひとつであった。岡山県ターゲットバードゴルフ(TBG)協会の尽力により、2005年岡山国体のデモンストレーション行事の種目に、ターゲットバードゴルフ(TBG)が採用されたのが2000年のこと。開催決定から国体本番まで5年余り、知名度のあまり高くなかったターゲットバードゴルフ(TBG)を、開催地の美作作東地区の人々とともに、PRし準備を進め、大舞台を迎えることができた。国体については、今後も出場できるように、開催県への早期の働きかけを進めている。

6.国際化の動き

世界ゴルフフォーラムでの発表

国内での広がりとともに、ターゲットバードゴルフ(TBG)が日本初のニュースポーツとして、海外へ発信される機会も出てきた。1992年、日本ゴルフ学会主催の「世界ゴルフフォーラム」では、学会運営委員会の推薦を受け、同フォーラムのアトラクションとして、ターゲットバードゴルフ(TBG)の会場が設けられることに。国内外からの学会参加者が、気軽にターゲットバードゴルフ(TBG)を楽しむ姿が見られた。

海外での普及活動

ターゲットバードゴルフ(TBG)の楽しさを世界の人々に向けて発信したいと、精力的な活動を続けてきたのが、神奈川県ターゲットバードゴルフ(TBG)協会の波多野良子である。1999年、ハワイの日系人会と連携で交流会を始めたのを皮切りに、2002年中国、2003年タイ、オーストラリア、2005年韓国との輪が着実に広がってきている。
2002年8月には、日本と中国の国交正常化30周年を記念して、日レクが「日中友好レクリエーション交流会」を企画。この中で、他のレクリエーション団体とともに中国を訪れ、ターゲットバードゴルフ(TBG)で友好を深めた。タイでは、2003年に普及活動が始まった。2004年7月、「日中友好交流会2004」が北京で、「第1回日タイ国際交流大会」がチェンマイで同時に開催された。

7.ターゲットバードゴルフのこれから

1985年、埼玉で野嶋孝重が発案し、たった一人で普及を始めたターゲット・バードゴルフは、2007年現在全国44都道府県、350の市区町村に協会が作られ、全国大会を行い、海外でも普及が進むところまで発展した。今後は、アジア圏への普及とアジア大会の開催、47都道府県に協会設立当が、夢であり目標となる。企業、行政、個人と、様々な立場でたまたまターゲット・バードゴルフに携わることとなった人々を夢中にさせてしまう不思議な魅力がターゲット・バードゴルフにはある。時代の流れやラッキーな部分もあったが、ここまでの発展は関係者の情熱の賜物。その情熱を、さらに多くの人々に引き継ぐことができれば、さらなる発展へとつながっていくことだろう。

2020年1月14日、考案者 野嶋孝重は永眠いたしました。
すべてのターゲット・バードゴルフ愛好者の皆様に深く感謝いたします。
今後とも多くの皆さまに愛好されるよう願っております。